有馬温泉と文学

2011年10月28日 有馬温泉の歴史と文化, 有馬温泉の温泉, 陶泉 御所坊

【 はじめに 】

有馬と文学のお話しですが、残念ながらあまり有馬は舞台になっていません。ちょこちょこはありますが、有馬温泉は有名ですが、作品の舞台になっていないというのがちょっと残念です。

例えば、川端康成「雪国」は、実際は越後湯沢の温泉が舞台になっていて、今でも川端が使った部屋というのは残されていて観光のスポットにもなっています。もうひとつ川端で、伊豆の湯ヶ島温泉ですが、そっちのほうは特に部屋が残っているわけではなく、伊豆というと今、JRの東京から下田へ行く電車に「踊り子号」というのがあります。「踊り子号」というから本当に驚きです。小説作品の名前がそうやってJRの列車の名前になるくらい影響力を持っていたのが川端です。

谷崎潤一郎も温泉は好きで、資料にしました。あちこち行っていますが、舞台にしたというのは有馬くらいです。しかし有馬はあまりいいイメージで描かれていない。有馬というよりも温泉場というもの自体が持っている意味です。私たちが普段日常生活をしている場面ではない、非日常。こちらに暮らしている方々はここが日常ですが、われわれ一般の人間からすると温泉というのは、非日常の場所。例えば湯治とかで来るような場所です。その温泉という場所。どうしてその温泉というのが文学の舞台になっていくのか。どういうふうに文学の舞台に今までされてきたのかということを有馬だけではなく、他の温泉場も含めてちょっとお話をしていきたいと思っています。

【 有馬と歴史文学 】

日本史を勉強している人はたまに読むかもしれませんが、ほとんど「日本書紀」など読みません。でもその「日本書紀」に載っているというのが有馬温泉のうたい文句というか、宣伝。有馬というとまず「日本書紀」に載っているというふうに書いてあります。「日本書紀」にどんなふうに載っているのかということは具体的にはあまり書かれていないので、そこを引用しました。

「日本書紀」の巻第23。舒明天皇の場面。舒明天皇が即位して3年9月。西暦で言うと631年になりますが、こういう記述があります。上に漢字が連ねてあります。これが「日本書紀」の原文ですが、下に読み下しを書いておきました。

最初です。舒明天皇の即位3年の秋9月、「丁巳の朔にして乙亥に、津国の有間」、有間の湯と読ませますが、温湯と漢字二字で「ゆ」と読ませます。「津国の有間の湯に幸す」とあります。有馬の「馬」が「間」という字になっていまして、これがいつ「馬」になったのかちょっと僕も詳しいことは知らないです。

この舒明天皇というのはどうも温泉好きの人で、人というか天皇ですが、9月に来て、次の行です。冬12月、「丙戌の朔にして戊戌に、天皇、温湯より車駕、温湯より至ります」とあります。つまり舒明天皇は、9月に来て12月まで4ヶ月有馬の温泉にいた。政治をちゃんとやっているのかなという感じです。一応政治の中心にいるのが天皇です。だけど4ヶ月有馬温泉に。9月から12月。

次です。また舒明天皇は、次のそのとき10年。冬10月に「有間の湯の宮に幸す」。この天皇はやはりこの有馬が気に入っていたのか、10月に来て「是の歳、百済、新羅、任那、並に朝貢る」。今「伽那」というふうに言うべきだというのが最近の研究で、僕らは「任那」と習いました。「任那日本府」と習いましたが、最近の歴史研究では「任那」というのはないです。「伽那」という場所があって、そこに日本府があったらしいというふうになっています。

朝鮮半島からいろんな朝廷に貢ぎが来たと書いてあって、その次の行ですね。「11年の春、正月の乙巳朔にして壬子に、車駕、温湯より還ります」とあります。つまり10月に来て、年越しをして正月をここで迎えて、正月になって車駕はお湯から、この有馬から離れてその次にあります。「乙卯に、新嘗きこしめす。蓋し有間に幸せる因りて、新嘗を闕せるか」と「日本書紀」は記しています。

新嘗というのは、収穫を寿ぐ祭りで非常に重要な祭りです。今は11月23日です。勤労感謝の日に合わせていますが、宮中で行われる新嘗祭。即位した天皇が最初にやる新嘗祭は特別に大嘗祭と呼んでいます。この11月中にある大事な新嘗祭を舒明天皇は宮中でやらなかった。

なぜか。有馬にいた。有馬にいたために大事な新嘗祭を闕したのかというふうに書いてある。それほど好きだったのです。あるいは、それだけひょっとしたら、日本もそのころ平和だったのかもしれません。この舒明天皇は次のところを見ますと、「日本書紀」の23ですが、「12月の己巳の朔にして壬午に、伊予温湯宮に幸す」。伊予。今の道後温泉のことです。道後温泉にまで行っているのです。よほど温泉が好きな天皇でした。

舒明天皇の話。これが最初に出てくる有馬です。

その次です。「日本書紀」巻物第25。孝徳天皇。第36代天皇です。舒明が34代で36代が孝徳天皇になります。大化3年。孝徳天皇が即位するまでは軽皇子と呼びました。軽、軽井沢の「軽」です。古代史でも大変重要な人物です。つまり軽皇子が大化の改新を成功させました。軽皇子がその後に皇太子にする中大兄皇子、それから中臣鎌足らと一緒に大化の改新を成功して彼は天皇になります。だから、古代史の中でも重要な中大兄皇子(後の天智天皇)を登用して皇太子にしました。非常に重要な天智天皇を歴史に登場させたという意味でも大事な天皇になります。

この天皇もどうもこの有馬好きなのです。この孝徳天皇は飛鳥にあった宮を嫌って難波の宮に移します。だから、孝徳天皇は難波からこの有馬にやって来ます。この道をどういう道を通ったのか、ちょっとこれがよくわからないですが、その道を探りたいですね。

舒明天皇は飛鳥におりました。飛鳥岡本宮というところにいたので、飛鳥から奈良からやってきたわけです。話が前後しますが、舒明天皇のころは蘇我蝦夷、蘇我入鹿の全盛期です。まさに蘇我氏の真っただ中にいたのが舒明天皇。ひょっとしたら、蘇我の連中が嫌だから有馬に逃げて来たのだろうというような気もしないでもないです。その蘇我一族を孝徳天皇になる、この軽皇子が一掃するわけです。

今、歴史のこと言っても仕方ないのですが、蘇我入鹿あるいは蝦夷一族は、日本の歴史の中では悪い方の人たちになっています。つまり大化の改新でやっつけられたということになりますが、実際のところはどうでしょう。歴史というのは常に勝者の歴史です。みなさんご存知のように、歴史を書くのは負けた人たちではないです。敗者はただ従うばかりで、勝者が自分たちの都合のいい歴史を作っていきます。だから、われわれ歴史書を読むときには、常にそこでこれは勝った人たちが書いたものなのだということをいつも注意していかないといけない。それが全部正しいとは言えません。だから、蘇我氏にしても、いわゆる朝鮮半島と非常に強い結びつきを持ち、目標を持ってその国を支配しようとしていた。それが悪かったのかよかったのかというのは、それは当時としては天皇をないがしろにするということで嫌われました。蘇我氏の話をし始めるときりがないのですが、その蘇我一族の征服を一掃した軽皇子、すなわち孝徳天皇が、大化の3年にこちらにやって来ます。

「冬10月甲寅の朔にして甲子に、天皇、有馬温湯に幸す」。注目されるのは、有馬で初めて「馬」が使われます。ですから同じ「日本書紀」の中でも舒明天皇が来たころは、「間」と書かれてありましたが、孝徳天皇がこちらへ来たときには「馬」という字が使われています。こういう漢字というのは読み方が先にあっていろんな漢字を振ります。「振り漢字」と言っていますが、音が先にあるのです。それにたまたまあった漢字をあてていくだけなので「間」であっても「馬」であっても、意味の違いはないのかもしれません。「ありま」と呼ぶ地名があったということです。そして今日の「ありま」は「馬」という字が入っております。

このとき孝徳天皇は、「右左大臣・群卿大夫を従へり」。だから左大臣、右大臣、それから周りの者たちを連れての大旅行です。すごいです。だから宮中全部こっちへ移ったような、そういう大きな旅行をこの有馬でやっております。どれぐらいいたかというと、10月に来て12月に車駕は「武庫行宮」。ここをくだって、この武庫というのは「武庫川」がある辺り、武庫之荘あたりでしょうか。武庫郡は非常に広いですから。東灘区辺りも武庫郡と昔言いましたので、あの辺に行宮を作ってそこへ戻りました。だから有馬にやっぱり3ケ月くらい、その左大臣右大臣らと一緒にいたといいます。

おもしろいですね。どういうルートでここへ来たのでしょう、とんでもなく険しいところにあるわけです。険しいところを越えてここまで来るという、それだけ有馬の湯は魅力があったのでしょう。「日本書紀」にこのように書かれてあるのが、有馬の歴史の最初です。舒明天皇、孝徳天皇、特に歴史の大きな大転換の改革をなしとげた孝徳天皇がここへ来たことは記憶されるべきですね。

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明里千章 教授




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