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行基ゆかりの“富松一寸ソラマメ”

WP_20160514_14_50_58_Pro富松一寸ソラマメは、一粒がまさしく一寸(3㎝)ある大粒のソラマメ。尼崎市富松町にある富松神社の宮司 善見壽男氏が地域の親睦を図る為に

小学生や地域の人たちと栽培をし、毎年5月中旬の土曜日に一寸豆祭りを開催している。

この富松神社は万葉集に「有馬山 猪名の笹原 風吹けば いでそよ人を わすれやはする」とうたわれている猪名の笹原にある。この場所は伊丹台地と呼ばれる洪積台地で、水はけが良く水田には適さない場所だった。

 

行基は(668年~749年)百済系の渡来人の両親の元に生まれた。15歳で出家し、飛鳥寺で日本に橋梁づくりを行った道昭の元で学ぶ。

710年に行われた平城遷都の頃、過酷な労働から役民たちの逃亡・流浪が頻発した。行基はこうした人々を救う事に手を尽くした。そして多くの行基を慕う人々が集まった。いわゆる「行基集団」と言われるものが組織されたが、時の朝廷(元正天皇)から宗教弾圧を受ける。

723年、自発的な開墾を奨励する三世一身法が発布される。それまで弾圧を受けていた行基は、それぞれの土地の士族や農民との利害が一致し、行基を取り巻く集団が拡大した。

行基が有馬にやって来たといわれるのが724年。伊丹台地を開墾する集団が癒しの場所として温泉を探し求めたのだろう。

 

731年(天平3年)昆陽池が完成した。

この事により伊丹台地で水田が可能となった。

昆陽上溝、長さ3600m、幅1.8m、深さ1.2m。下溝、長さ3600m、幅1.8m、深さ1.8mで延べ人員2.122人、食料161石を必要とした。これは地元豪族の協力があってこそ出来上がったと思われる。この功績により朝廷は行基への弾圧を緩めた。

 

736年(天平8年)難波の津(川尻の津)でインド人の僧侶からソラマメを行基が受け取った。行基は昆陽池に水田の二毛作の作物として、このソラマメを植えた。

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聖武天皇は、この様に豪族や民衆に支持されている行基を利用して大仏造成する事を考えた。

740年、行基は大仏建設に協力する。

 

741年、聖武天皇が木津川の泉橋院に行幸した際に行基と会見し、猪名野(為名野)の荒れ地を与え給孤独園(ざっこどくおん)とすることを許すと記載されている。給孤独園とはインド中部のセットマヘットにある釈迦が説法した遺跡だが、行基の場合は身内のない人の収容施設の名称とされている。

身寄りのない孤独な者達を収容し、水田百五十町を所有し、自活する難民収容施設(布施屋)を行基は造った。因みに「孤独」とは、「孤」は16歳以下で父親のいない者、「独」は60歳以上で子のない者の事を言う。

難民を救済する布施屋の思想は仏教では福田(ふくでん)と呼ばれる。種を蒔いて、功徳を得る為の田地の事をいう。富松神社の宮司が「富松一寸ソラマメ」を祭ってされている事につながる。

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