日本書紀からの歴史を持つ温泉街、有馬。
その温泉の効能は、現在も多くの人に愛されている。
だが、温泉を取り巻く周囲の環境は、昔と大きく異なっていた。
今回は、かつての有馬の湯船がどのようなものであったのかを解説していこう。
今や、一つの宿に一つ温泉や湯船があるのは当たり前だが、かつてはそうでなかった。
元和七年(1621年)の「有馬温泉記」や、寛政八年の「摂津名所図会」などの記述によれば、当時の有馬温泉には各旅館の内湯が存在せず、ただ一カ所の湯元に大きな浴槽を作り、それを板で二つに区切ってそれぞれ「一の湯」「二の湯」として使っていたらしい。
現代における「金の湯」の場所がそこにあたる。
その二つの湯船を、各宿坊ごとに分け使っていた。
寛文四年の「有馬地志」などの記録によれば、一の湯には御所坊や奥ノ坊、角ノ坊に上大坊などの十坊、二の湯には池ノ坊に下大坊、萱ノ坊に北ノ坊が割り当てられていたという。
特に御所坊は、唯一この浴場と渡り廊下を通してつながっていたとされているので、比較的利用がしやすかったようだ。
湯船の広さについてであるが、貞享2年の「有馬山温泉小鑑」などの史料によれば、横の広さが一の湯二の湯合わせて貳丈六尺四寸、縦の広さが壹丈貳尺五寸、奥行が壹丈五寸、深さが三尺八寸ほどということらしい。
これを現在の尺度に直すと、横の広さは7.72メートル、縦の広さが3.75メートル、奥行が3.15メートル、深さは1.1メートルほどということになる。
一旅館の銭湯とすれば充分な大きさではあるが、これを敷居で二つに分け、なおかつ当時二十以上あった宿坊と小宿の客で使うのだから、空間には余裕がなかったと考えられる。
なので、しばしば入浴の順番で喧嘩が起こったり、なかなか上がらないものに対して湯女(入浴客のさまざまな世話を行う女性)が湯口の戸を木の棒で叩きながら「あがれあがれ」と罵り、無理矢理追い出すといったこともあったらしい。
現在は有馬のどこの宿でも湯船でゆったりのんびりくつろぐことができるが、たまにはこうしたかつての情景を思い浮かべ、有馬温泉の歴史ロマンに浸ってみるのもよいだろう。