5月5日はおもちゃの日だそうだ。業界はゴールデンウィークの期間中おもちゃの販売促進を行っている。
有馬温泉に念仏寺という浄土宗の寺があり、秀吉の正室 北野政所の屋敷跡に建てられた寺と言われ6月下旬は沙羅の花が咲く事で有名な寺がある。現在の住職がまだ寺の仕事につく前、大阪でテレビ関係の小道具を扱う会社に勤務していた。彼はアートに関心があり、ある時「加藤裕三って人がいるんや。その人を有馬に呼んだらきっと面白いで! グリコのおまけのおもちゃのデザインをしている人なんだ。」という話をしてきた。
僕は何のつながりもないので、その場は聞き流していた。
阪神淡路大震災が起こり、復興策の一つとして蔵を改装してギャラリーをつくる事にした。二階の部分は作家を招聘して展覧会を月一回開催しようと考えた。その中で気に行った品を常時階下の販売スペースで売ろうと考えた。
まず作家・・・と考えた時に、僕が個人的に尊敬し好きな作家がいた。その人が有馬玩具博物館の初代館長で、現在神戸電鉄の有馬温泉駅の近くでイタリアン・レストランのポルコのマスターは西田さんの次男坊なのだ。
当時、西田さんは白馬から岡山県の東粟倉村に住まいを移していた。ペンションのオーナーから本格的なからくり人形作家になっていた。西田さんにギャラリーの話をし、展覧会を開いてもらうように要請した。
ある日、西田さんから電話がかかって来た。「今度、ビーンズ・スタジオを立ち上げたので、仲間の加藤裕三と一緒にやるわ!」という話だった。「あのグリコの加藤さん?」という事でつながりができた。
展覧会は大成功に終わり、その後しばしばつきあいが生まれた。でも少しややこしかった。
加藤さんは東粟倉村に住んでいた。1987年から1993年の7年間で260点ほどのおもちゃのデザインをした。一年間で40点のデザインをした事になる。だいたい1週間に一つデザインし、木型をつくりサンプルをつくる。モノづくりをしている人だと理解して頂けると思うが相当の激務である。
しかし仕事はハードだったけれど実入りは良かったようだ。しかしおもちゃの安全性の基準が変わった。それまでのプラスチックのおもちゃがダメになったのだ。そこでグリコキャラメルも価格を上げて木製のおもちゃをおまけに入れる事になった。その時に阪神淡路大震災が起こった。
彼はそれまでの張りつめた糸が切れたように木工道具を投げ出し、作家生活を止めてしまった。当然生活も乱れた事だろう。
そこで先輩格の西田明夫さんが「お前から作家活動が無くなったら何が残るのだ!」といって仕事と仕事場と住む場所を提供したのだった。そして二人のええおっさんがこれから少しはマメに生活しようとビーンズ・スタジオを立ち上げたのだった。
その最初の展覧会がギャラリー・レティーロドウロだった。
加藤さんは人脈が広く、色々な作家を紹介してくれた。また作家の立場からギャラリーのやり方を教えてくれた。
ある日、加藤さんが新聞記事を片手に有馬にやって来た。その新聞には大型会員制ホテル建設の話が載っており有馬温泉内が大きな騒動になっていると言った内容だった。
加藤さんは、将来の有馬について、おもちゃの構想を語った。「販売する」という営業的要素と、「見せる」というミュージアム的要素と、「教える」という学校的要素・・・この三つを、有馬なら組み合わせ出来るんではないか。
あるとき真顔で「金井さん、この近くに産婦人科ないかなあ」と言うんです。こっちも少しあわてて「えっ、どないしたん?」と聞くと(笑い)、彼いわく、妊婦さん相手にこれから生まれてくる子のためにおもちゃをつくる教室を開きたい。そのおもちゃづくりのなかで、赤ちゃんの掌はこれぐらいだから、どんなサイズのものがいいやろうねとか、口に入れても大丈夫な大きさにせなあかんとか、そういうことから一緒に考えていく。
お母さんが自分でつくって生まれてきた子に与え、それで一緒に遊び、また成長に合わせて違うおもちゃをつくりたくなる。
それを見ていたダンナさんが、男の子なら、よし俺がクルマをつくろう、ということで、またつくり方を習いに来る。
そんなふうにして、自分のつくったものを子供に与えるというのが「本来のおもちゃの姿だ」と言うんですね。そいう過程がとても大事なんだと。だから、まず妊婦さんからつくり方をを教えていきたいということだった。「そうやっておもちゃと出会う子は、きっといい育ち方をするだろう」とも言っていました。
そのとき、僕は僕で勝手に頭のなかのアプリケーションを開いていました。そういえばうちのお客様は「むかし親父や、お祖父ちゃんによく連れて来てもらったから、いま自分も子供を連れてきた」という人が多い。有馬というのは都会に近く、京阪神の人が、代々ことあるごとに使ってきた温泉地なのです。
「一生に一度」というかたちでない。だから有馬は、家族連れが楽しめる温泉地をめざすのが正解や、とあらためて思ったんです。そして、ここにちゃんとしたおもちゃの店があれば、お祖父ちゃんが孫のために買うという場面が生まれる。それはいいことじゃないか・・・というふうに、発想がひとめぐりしていきました。
それが、子供の本質、家族の本質と,おもちゃのあり方を結びつける加藤さんの視点と、僕が有馬という温泉地全体に描く将来のイメージとが、ぴったり重なった瞬間ですね。家族という切り口を全面的に押し立てている旅館は、全国にもあまりなかった。うちは昔からそんな感じのやり方でしたから、高齢の方から「昔は新婚旅行できたよ」という話が出るわけです。
三代で楽しみを共有できるサイクル、買ってもらう喜びと、買う喜びを、長い時間のなかで伝えていけるサイクルが、ここには現にある。
まずは加藤さんは「おもちゃ屋をつくろう!」と言いだした。
そこで今の金の湯の足湯の前に4人で出資してALIMALIをオープンする事になった。しかし加藤さんは店長業は木工作家みたいに行かず、しょっちゅう「米櫃が空や!」と嘆いていた。
玩具博物館の計画の為に伊香保温泉に行く事になった。伊香保のおもちゃ博物館の見学し、知り合いの宿で宴会をした。若女将は当時独身で我々4人が平均×一なので驚いていた。僕には×はついていないが鞄作家さんが×が二つ付いていたからだ。
その時はワイワイ食って飲んだと思う。伊香保で別れて僕は長野に向かった。加藤さんは東京に向かった。
長野から有馬に帰った時に、加藤さんは緊急入院していた。胃の調子が悪くて検査したら癌だという。
加藤さんと西田さんの作風や好みは違うと思う。そこで従兄弟のデザイナーに両方の話を聞いて博物館のイメージスケッチを作ってもらった。
2001年のゴールデンウィーク。有馬温泉は交通渋滞を解消する為に一方通行の試みを行っていた。最終日有馬の某スナックで打ち上げに参加していた。その時に電話が鳴った。加藤さんが危篤との事。家に帰り当時大学生だった息子の運転で病院に向かった。子供とおもちゃを愛した加藤さんらしく5月5日に亡くなってしまった。
2003年7月に加藤さんの想いを形にして有馬玩具博物館が開館したのです。
館長に西田明夫さんが就任し、しばらくして西田さんの次男、西田周平君が有馬温泉にやってきます。かれはオモチャ作家ではなくイタリアンのシェフなのです。
現在有馬温泉の駅前に“ポルコ”というイタリアンレストランを営んでいます。
有馬玩具博物館にゲストが来たときや色々なパーティーをポルコで開催しています。
その後あちこちで「加藤裕三とおまけのおもちゃ展」を開催しましたが、少し引っかかっていました。グリコのおまけといえば誰もが想像できるのですが、残念ながら加藤さんの名前はそう知られていないと思います。
また亡くなって10年たつと加藤さんと西田さんをともに知っているスタッフは誰もおらず、唯一、有馬里駐車場でイーゲルという天然酵母のパンを焼いている井関嬢だけです。
ところが加藤さんが亡くなって11年目の今年。初めてグリコ社からOKが出て「グリコのおまけのおもちゃ加藤修三展」というようにグリコ社とタイアップしてグリコという名前が使用できるようになりました。今年4月はじめから5月一杯まで加藤裕三とグリコのおまけのおもちゃ店を開催いたします。
3月はオートマタというつながりで“ヒューゴの不思議な発明”とタイアップ企画を開催いたしました。今のこの状況下、あの世から西田明夫さんと加藤裕三さんが応援してくれているように思います。