【 吉川英治が泊った有馬温泉の旅館 陶湶 御所坊 】
吉川英治は『新平家物語』を執筆する際、取材旅行で有馬温泉 御所坊に泊まった事を『随筆 新平家』に記載している。その部分を引用する。
雨後の山坂を、ゆられゆられ、有馬温泉の御所坊に着いたのは、もう十一時近くであり、それでも、湯に入ってから、まずはあとはあすの史蹟歩きだけになったと、急に気分もかるくなった。そして「このぶんなら腹のかみなりも治まろう」と浅慮にもまた茶など飲んではしゃぎ始めたものである。春海宗匠とても同様、まず大阪の一人をすましたというゆとりも出たせいか、
障子越し硝子越しに有馬の河鹿哉
と物理学的名吟を示され、僕も駄句ること三句、
啼いてゐますよとそこ開くる河鹿かな
夜もおそく着きて河鹿にまた更けぬ
水音は二階に高き河鹿かな
やがて部屋を別れ別れに、戸外の河鹿を措いて、こちらは蒲団の襟をかぶった
(昭和29年7月4日)
(中略)
宿の御所坊を立ち出るとすぐ川辺氏が「ここから二町ほど上の温泉寺。清涼院といいますがね。そこに清盛の石塔というのがあります。ちょっと、見てゆきますか」という。
川辺氏について温泉町のだらだら坂を登ってゆく。石造美術に造詣のふかい氏の話には道も忘れるものがある。温泉寺のそれは足利時代初期の物であり、由来も定かでない由、しかしそこでは、思わぬ拾いものをした。
2012年のNHK大河ドラマの主人公は平清盛。残念ながら清盛は有馬温泉に来ていないという説が強い。
平家一族が滅んだという壇ノ浦の戦いが1185年4月25日。その年の8月6日に文治京都地震が起こっている。鴨長明が『方丈記』に記載している。
この地震が群発地震で清盛が有馬温泉に行こうとした時、有馬は地震でつぶれていたのではないかと考えていた。
しかし後白河法皇と建春門院夫妻が有馬温泉に来られている事を考えると、清盛は来れていた事になる。
歴史家の田辺眞人先生は、歴史に残っていない事は歴史家として言えないといい、清盛ほどの人物が、もし内緒で来ていたとしても有馬の伝説に残っているだろうという。その伝説がないところから先生は清盛が来ていないという。
だが清盛は武士の世をつくる為に天皇家に近づいていた。後白河法皇の妻、建春門院は平家の一族から嫁いでいる。
後白河法皇の50歳の誕生日を祝う賀宴が催された時、平家一門はこぞって招かれている。そして賀宴の後、後白河法皇は有馬温泉に来ているが、都に帰ってすぐに建春門院が亡くなり平家一門との間を取り巻く人がいなくなった。ここから溝が深まっていく。
有馬温泉は“子宝の湯”として当時も有名だった。二人の間に高倉の宮が生まれた時に、清盛が有馬温泉の温泉寺に“心西”としてお礼に経典を寄贈したのではないかと私うは推察している。
歴史を想像しながら、御所坊の川沿いのこの部屋でのご滞在をお楽しみください。
【 陶湶 御所坊 吉川英治縁の部屋:ケイの間 】