太閤豊臣秀吉は如何に有馬温泉を愛したか

2016年12月9日 有馬温泉について, 有馬温泉の歴史と文化

日本書紀から紐解けるほど古い歴史を持つ有馬温泉には、歴史上の有名人物が数多く訪れている。

 

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その中でも一際知名度の高い人物は「太閤」こと豊臣秀吉だろう。

神戸電鉄有馬温泉駅から歩いてすぐのところにある「太閤秀吉像」と「太閤橋」。

そして、その向かい側にある彼の正室北政所をかたどった「ねね(寧々)像」と「ねね橋」。

 

他にも、秀吉が祈って湯を沸かせた話に由来する「願い坂」、和尚の頭に似せた茶釜が伝えられる「善福寺」。

そして、秀吉の別荘である湯山御殿ゆかりの発掘品を見ることができる「太閤の湯殿館」など、秀吉にちなんだものは数多く有馬に遺されている。

 

その足跡を史料から辿り、太閤豊臣秀吉と有馬の関わりを紐解いていこう。

 

最初に彼が有馬の地を訪れたのは、天正7年(1579年)のこと。播磨別所氏の本拠三木城攻略に必要とする道普請を、当時は「郡」であった有馬の人々に実施させたという。

その後、別所氏当主長治が自害し、三木城が開城した天正八年(1581年 )の2月。秀吉は有馬温泉に浴し、城攻めによる疲労のため深く眠りこけたという。これが秀吉の有馬入湯に関する最古の記述である。(有馬地誌)

 

おそらくこの入湯がきっかけで、有馬の地に対して興味を抱いたのだろう。

その後信長が本能寺の変で斃れ、明智光秀や柴田勝家、徳川家康ら敵対勢力と争いを繰り広げている最中であっても、秀吉はしばしば有馬を訪れていた。

また、石川本願寺の元法主本願寺顕如、堺の茶人津田宗久、今井宗薫らのような当時の大人物も秀吉を見舞って入湯している。(貝塚御座所記、天正日記等)

更に天正十二年(1585年)2月。8年前の大火によって焼失した薬師堂復興のため、金子1500枚および地領百石の寄進を正室北政所(寧々)の願いによって実施したとある。(善福寺文書)

この際復興された薬師堂は明治の廃仏毀釈による被害を逃れ、温泉寺(有馬山 温泉禅寺)として現存している。秀吉の寄進がなければ、有馬の名所が一つ消えていたところであった。

 

特筆すべきは、天正十七年(1590年)9月に行われた「有馬大茶会(ありまだいさのえ)」だ。

同年2月に小田原北条氏を下し、7月に伊達政宗ら奥州の諸将への所領与奪を実行。名実ともに天下人となった秀吉は、金湯山蘭若院阿弥陀堂にて茶会を実施。

太閤秀吉の茶会といえば、これより3年前に京都北野天満宮で行われた「北野大茶会」が広く知られているが、この有馬大茶会もなかなかのものであったようだ。

秀吉と懇意であった茶聖千利休をはじめ、後に五大老となる小早川隆景、有馬郡出身の父を持ち、伏見城建築に貢献した有馬則頼(法印)など、錚々たる顔ぶれが参加したと記録されている。秀吉自身も愛用の銘茶器「鴫肩衝」をわざわざ持参しており、大層な力の入れようであったと思われる。(善福寺文書)

 

その後、慶長元年(1594年)には大がかりな別荘「湯山御殿」を建てさせるなどしたが、慶長三年(1596年)7月に発生した「慶長伏見地震」によって全壊。

有馬の湯屋や民家も大きな痛手を負い、温度が急激に上昇したため温泉を利用することができなくなってしまった。(湯山由緒紀)

この事態を重く見た秀吉は直ちに復旧を行うと同時に、一年間にも及ぶ大規模な改修工事に乗り出した。

災害などで泉源が破壊されることを防ぐため、松の丸太を組み合わせ、隙間に粘土を硬く詰め込むなどして厳重に保護。更にはすぐそばを流れていた六甲川の氾濫による被害防止のため、その向きを変えるなどした。(湯山由緒記)

これにより有馬の地が水難に苦しめられることはなくなり、泉源はその後350年間改修工事を行う必要がなかったという。

建築の名人である太閤秀吉の実力と、有馬への強い思いがうかがえるエピソードである。

 

それから1年後の慶長五年(1598)年3月、秀吉は病に斃れこの世を去った。

それより1ヶ月前、かつて復興に携わった薬師堂奥の院より新たな温泉「上の湯」が噴出し、「かねて薬師如来に願ったことが実現した」と入湯を楽しみにしていたようだが、ついに叶わなかったという。(湯山由緒紀)

 

その十七年後の慶長20年(1615年)、徳川氏によって豊臣氏は滅亡。

「なにわのことも夢のまた夢」という辞世句の如くその血脈は途絶えてしまったが、その功績は今もこの有馬において人々とともに存在し続けている。

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